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新着情報及びイベント情報等のお知らせ

須田 和

親と、そして子と 心をつないで

私の父は広島県の農家で大正15年に生まれました。召集後、すぐに原爆投下で終戦を迎えています。 ちょうど20歳の父にとってはあこがれる大都会であった広島のまちと人々の惨状を知るにつれ、二度とこのようなことがないようにするにはどうしたらよいのかと、よく自分に問うたと聞いたものです。父の答は「子どもに教育を、そのために自分は懸命に働く」ということだったのだろうと私には思えます。

戦後、父は郵便局に勤め、同僚と結婚し、昭和31年に第一子として私が生まれました。当時箱入りで定価300円という「育児日記」を父が書いてくれています。母の実家に間借りしていた自宅での出産、命名、いただいたお祝のリスト。多くは「毛糸○○オンス」で、卵や鮮魚など食べ物の数々で、「郵便局の○課一同千円」といった現金や子ども服はごくわずかです。また、3歳ごろまでの私の様子が父の驚きや喜びや楽しさ、不満などとともに記録されています。 実はこの日記を私が手元に持つようになったのは、父が64歳で亡くなってからです。 薄くなりつつあるブルーのインクの筆跡や挟み込まれている「初めてきったツメ」「足型のスタンプ」などなどを見ると、感謝の一語につきます。これらを父といっしょに見ながら、読みながら、語り合っていたらどんなによかったかという悔いが残っているのは、思春期や父の退職直後などは、私は父の生きかたを尊敬することを一時やめてしまっていたからです。

ふり返れば、郵便局での仕事だけでなく、家庭や地域活動、親戚とのつきあいを懸命にしていた父。庭、畑、本棚、ブランコなどを作り、「明日、蹉跌(さてつ)がいる」と私がいえば早朝暗い内に一人で川辺に磁石をもっていって集めてきてくれ、PTAの役も積極的に引き受け、実家の農作業や親戚の工場の手伝いをするなど、いつも働いている姿しか思い出せない父。それなのに、私は感謝しているという想いを生前に伝えていなかったのです。

今の私は自分の成人した息子と娘に対して、父のように、忙しく立ち働く姿=愛情として見せていないことを痛感し、私は、父とは異なった形ではあるが、自分の子らへの愛情や想いをその時々で伝えてきた、と早く自信を持っていえるようになりたい、そして、それについて、彼らがどう思っているのかも、よく聴き、しっかりと受けとめたいと思います。

人は対等であるということや、価値観の違いがあったうえでも、それを尊重しあえる関係をつくりたいという想いをもって私が生きているということを伝え合うことができる親子関係を築けるのではないかと思います。

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